予習というより復習をする
ピエトロ・マスカーニ作曲「カヴァレリア・ルスティカーナ」とルッジェーロ・レオンカヴァッロ作曲「道化師(パリアッッチ)」は、どちらも演奏時間1時間強。このショートオペラ2作品は同時上演されることが多い。我々オペラファンは「カヴァ」と「パリ」を合わせて「カヴァパリ」と言う。
ショスタコーヴィッチ作曲「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の予習を読んでいただけただろうか?あれはロシア版ヴェリズモオペラと言えるだろう。一方、こちらのイタリア2作品は元祖ヴェリズモオペラ。「ヴェリズモ」は英語にするなら「リアル」、つまり、メルヘンや神話の世界ではなく、リアルな世の中を描いた作品。なぜかリアル=暴力という構図になっているが、それがリアルなのだろう。ああ、リアルは恐ろしい。
「カヴァパリ」は過去に生鑑賞したことがある。クラシック音楽を聴き始めたばかりの頃、私は、素人のくせにクラシック音楽を広める活動のつもりで、コンサートレビュー・ブログを書いていた。ある時、すごい案内が届いた。東京二期会より、オペラの稽古を見学して個人ブログで発信しませんかという企画の案内だった。なんという刺激的な企画だ。よろこび勇んで何度か見学会に参加したが、そのうちの一つが「カヴァパリ」だった。あれは2012年。その時の見学会は演出家のトークもあった。演出したのは田尾下哲氏だった。「カヴァレリア」は原作に近い演出。覚えているのは、最後に、死んだトゥリッドゥの遺体が載った横長の板を客席にグイッと突き出して幕が降りる場面。筋書きでは舞台裏で決闘が行われることになっているが、ちょっと衝撃的なエンディング演出だった。「パリアッチ」はカニオたち旅劇団をアメリカの映画スターかテレビスターのように見立てていた。飛行機から降りてきたスターたちに大きな歓声が上がる。劇を見物する村人たちはスターたちの姿をカメラで撮りまくる。
まだオペラ初心者だった私は、見学会のたびに、作品をゼロから勉強して、自腹でチケットを買って観に行っていた。「カヴァパリ」の時は私は失業中だったと思う。ウィーン旅の直後か?暑い夏のリハーサル場(都内の元小学校の校舎を利用)で見学した記憶がある。
音楽素人スズキによる音楽ブログが、チケット売り上げに貢献したとは思えないのだが、稽古の見学会のお陰で、オペラ界は私という一人の熱烈なオペラファンを獲得した。放っておいても私は勝手にオペラと出会ってオペラに惚れただろうけど、見学会という機会を与えられたので、オペラと出会う時期が確実に数年は早まったと思う。二期会のターゲットは私のブログ読者ではなく、私自身だったのではと、今は思う。(だとすれば、そのプロモーションは大成功だ!)
「カヴァ」美しいが閉鎖的なイタリアの田舎
2012年当時、図書館で借りたDVDで「カヴァレリア・ルスティカーナ」を予習した。素人には覚えにくいこの題名は、日本語にすると「田舎の騎士道」となる。DVDは映画仕立ての映像。主役トゥリッドゥを歌っていたのは若き頃のプラシド・ドミンゴ。映画俳優かと思うほど美男子だ。1982年の映像なので、古いとは言え著作権は継続しているはずなのだが、勝手に全編YouTubeにアップロードしている人がいる。ここには掲載しないが、興味あれば探してみてはどうだろうか。
映像はイタリアの田舎で撮影されている。移動手段が馬なので、時代設定も過去。原作についてはよく知らないが、原作の時代設定と同じなのだろう。古い街並みの小さな町が美しい。それなのに、美しいと思えば思うほど、陰気臭いものを無視できない。矛盾した気分になる。そこはまったく閉鎖的な社会なのだ!結婚してやると誓った男トゥリッドゥを愛したサントゥッツァは、不幸のドン底にいる。というのも、トゥリッドゥは以前の恋人ローラとこっそり逢瀬を重ねていた。トゥリッドゥが兵役に就いていた時に別の男アルフィオと結婚してしまったローラと。
久しぶりにそのDVD映像を見た。町の人々は、トゥリッドゥとローラのことに、何となく気付いているのだろうと思った。気付いていながら、知らないふりをする。なぜなら、不義が明るみに出てしまうと、男たちは決闘をしなければならない。それが田舎の風習、騎士道、掟、決まり。名誉を守ることが大事だった時代。つまり決闘で決着を付ける。誰かが死ぬということ。それなら、気付かないふりをするしかない。知らないふりをするしかない。美しい町に染みつく陰気さの原因はそこにある。ローラの夫アルフィオでさえ、ほぼ確実に妻が不倫をしていることを知っているだろうと思われるのに、はっきり問い詰めない。ただ、言葉は少なめに関係者に圧力をかけて、とんでもないことになる前に、今のうちに不倫関係を終わりにせよと、言っているような?言っていないような?
当の本人たち、つまりトゥリッドゥとローラは、それどころか、勝ち誇って堂々と幸せそうにしている。いざとなれば血を流すしかない恐ろしい野蛮な社会なのに、なぜか余裕ぶっこいでいる。憎たらしいほど上機嫌な不倫カップル。それは何故か。おそらく、トゥリッドゥの婚約者サントゥッツァがトゥリッドゥを熱烈に愛し続けている限り、自分たちは安全だと思い込んでいるのだろう。サントゥッツァが彼を愛せば愛するほど、二人の不倫を公言できない。公言してしまえば、トゥリッドゥはローラの夫アルフィオに殺される(周知の事実なのか、アルフィオの方が明らかに強いらしい)。かわいらしい外見で目立つローラは、高笑いが止まらない。アッハハハハハ!これではサントゥッツァがキレるのも無理ない。
サントゥッツァのような、裏切られた女は泣き寝入りをするしかない。それがこの田舎の風習。これまでもきっと多くの女たちが泣きながら耐えたのだろう。ただし、サントゥッツァはもう我慢の限界だった。通りすがりのアルフィオに告げ口をしてしまった。あなたの奥さんが私の婚約者トゥリッドゥと愛し合ってるわよと。復習を誓うアルフィオの言葉に、震え上がり、取り返しのつかないことをしてしまったとサントゥッツァは取り乱す。だが、もう遅い。
それにしても、決闘の直前に母親に甘えに来たトゥリッドゥは、なぜ母親に「もし俺が戻って来なかったら、サントゥッツァの母親になってやってくれ」と、サントゥッツァを気遣ったのだろうか。不思議なことだ。これまで、全くと言っていいほどサントゥッツァに無関心だったクセに。トゥリッドゥはサントゥッツァを愛していたか?いや、それは違うと思う。愛したのは最愛のローラだけなのだろう。ローラのためになら死んでも構わないとさえ思っているようなことは、冒頭の田舎訛りの詩の歌からも分かる。彼はサントゥッツァを愛してはいなかったが、可哀想とは思った、同情したのだろう。それが私の見解だ。お調子者のトゥリッドゥは、こっそりローラと会い続けても見逃してくれる、都合の良い女と結婚しようと思っていた。そして、身寄りの無い孤独なサントゥッツァに狙いを付けた。孤独なサントゥッツァは愛に生き、そして絶望した。決闘で死ぬ直前に、何故かトゥリッドゥはサントゥッツァがかわいそうに思うようになった。愛していたのか?いや、私はそうとは思わない。同情だ。
「パリ」咽び泣くカニオの背中をさすってやりたい衝動
もう1つの作品「パリアッチ」は日本語では「道化師」だが、実は「パリアッチ」は「パリアッチョ」の複数形である。つまり、題名「パリアッチ」は道化師2人のことを指しているあるいは2人以上?いやでもこの作品では2人だろう。座長のカニオと奇形のトニオだろう。カニオは愛する妻の裏切りを知り、ショックから立ち直れないまま、お芝居の準備をする。白粉を塗って、衣装を付けて、「トゥー セイ パリアッチョ お前はパリアッチョ(道化師)だ」「リーディー パリアッちょ 笑え、パリアッチョ」と自分に向かって歌う。でも、歌いながらパリアッチョは泣いてしまった。嗚咽を漏らす道化師男に我々観客は引き込まれる。私は何故か彼の背中をポンポン叩いて慰めたくなる。「よしよし、きっとまたいつかどこかでいいことあるから、もうあの女のことはもう忘れようね」と。
ところがカニオは立ち直れなかった。彼に同情した観客は、この後、裏切られる。カニオは妻と妻の相手を舞台上で刺し殺すのだ。そして「ラ・コメーディア・エ・フィニータ」とあまりに有名な締めのセリフを呟く。いや、このセリフはカニオではなく、この殺人劇を裏で操って、大成功を喜ぶトニオが言う場合もある。
他にも私はこのオペラの中に入り込んでしまう奇妙な癖がある。例えば、各幕の冒頭で、音程の外れたラッパが短いメロディーを奏でるのだが、それに呼応して大太鼓がドンドン、ドドドンと鳴る。あの奇妙なラッパが実は結構好きなのだが、それに続く大太鼓を叩く役を私がやりたいと無性に思う。あれを叩くのは、通常はトニオの仕事だったと思うのだが。(私はトニオか?!)
オペラの中で役者たちが劇を演じる。劇中劇だ。
カニオの愛妻ネッダは、夫が不在の間に別の男と戯れる女を演じる。イタリアのコメディアの定番だ。ネッダはコロンビーナ、役者ペッペはアルレッキーノ、フランス風に言えばコロンビーヌとアルルカン。ちょっとバカップルっぽい(笑)いつかオスとメスのペアでペットを飼うなら、コロンビーナとアルレッキーノと名付けようかしらと、どうでも良いことを私は考える。(いやでも、トリスタンとイゾルデも捨て難いな。)
偶然にも劇の中の出来事と現実が似ているものだから、カニオはついに気が狂ってしまった。ちなみにネッダの恋の相手は役者ペッペではなく、村人シルヴィオである。ペッペという役は脇役であり、特に目立つことも無いのだが、少し気になる。彼はしっかり者で、激しやすい座長カニオを落ち着かせる立ち位置のようだ。舞台上でカニオが事件を起こしそうだと気付き、ペッペはカニオを止めに行こうとするのだが、トニオに制止された。
トニオは完全な悪役だ。せむしの男。憧れのネッダに関係を迫ってみたが、拒絶されただけでなく、ひどくバカにされて憎悪を募らせた邪悪な男。ネッダの夫カニオにネッダの不倫を告げ口して、カニオが激情してネッダとその相手を殺すのをニヤニヤしながら黙って見続ける気味の悪い残酷な男。こっぴどく振られたのは可哀想だが、本当にネッダが好きだったなら、彼女の幸せを願ってあげるべきでは無いのだろうか。おい。
シルヴィオ?彼については特にコメント無し。
オンライン鑑賞した「カヴァパリ」今も忘れられない演出
稽古の見学会の後、実際の上演を鑑賞した直後だと思うのだが、ARTE TVで観た「カヴァパリ」の演出のことが今も心に残っている。ARTE TVはフランスとドイツで放送されている。一部の番組はネット上で他国にも公開されている。フランスでの上演だったと思うが定かではない。
通常の「カヴァパリ」のように、先に「カヴァ」、続いて「パリ」が上演された。
上手い演出だなと思った。どちらもイタリアのヴェリズモオペラではあるが、別々の作品である。しかし、この演出では「カヴァ」の続きが「パリ」ということになっていた。「カヴァ」のトゥリッドゥと「パリ」のシルヴィオが兄弟という設定だった。「カヴァ」には黙役でシルヴィオが登場し、母ルチアの居酒屋のお手伝いをしていた。ルチアは引き続き、今度は黙役として「パリ」に登場。「カヴァ」で長男トゥリッドゥ、「パリ」で次男シルヴィオを失ったルチアママは、最後に言った。
ラ・コメディア・エ・フィニータ
La commedia è finita!!
劇は終わりました。
ちなみに「コメーディア」は、お笑いではない。喜劇でなくても芝居全般をコメディアと言う。
もううんざり。これ以上もう大事な人たちを死なせないで。こんなこと、もう終わりにして。「ラ・コメディア・エ・フィニータ」ルチアママの悲しい訴えで幕が降りる。
さて、ウィーンで鑑賞する「カヴァパリ」では、誰がこの最後のセリフを言うのだろう。
妻と愛人を殺して復讐を達成したカニオか?それを裏で操ったトニオか?あるいは別の人物か?
2022年11月東京「サロメ」、12月フランクフルト「マノン・レスコー」「チャロデイカ」に続き、またソプラノ歌手アスミック・グリゴリアン Asmik Grigorian の歌声を聴けるとは、すごい幸運だ。