性暴力
ロシアの作曲家ショスタコーヴィッチのオペラ作品である。コロナ禍初期のストリーミング配信で、オランダ国立歌劇場で過去に上演された映像を鑑賞した。なかなかショッキングだった。何がショッキングだったか?説明しよう。
オペラにしろ演劇にしろ、ヨーロッパでは、たまに舞台上で裸姿を披露する人がいる。ただし、オペラの場合、裸になるのはオペラ歌手ではなく、ダンサーだ。非の打ちどころの無い、理想的な筋肉バランスの完璧ボディーを見せつける男女ダンサーたちの裸体は、もう見慣れてしまった。
しかし、オランダ国立歌劇場の「ムツェンスク郡のマクベス夫人」で上半身裸にされていたのは、中年の女性オペラ歌手だった。屋敷の女使用人アクシーナを歌った歌手である。ストーリー上、そうなっているので仕方ないのだが、本当にステージ上で歌手を裸にしてしまうケースは稀なのではと思う。アクシーナ役の歌手は、観客の前で、ストーリー通り、セルゲイを始めとする男性歌手たちにベタベタ “触られ” 続ける。男たちは「夜鳴き鳥みたいに可愛い声だね」とニヤニヤ大喜び。ああ、ひどい!ひどすぎる!可哀想でならない。彼女は、この役を、この演出を、納得して受け入れたのだろうか?
この後、女たらしのセルゲイは、いやよいやよと訴える屋敷の女主人カテリーナを襲う。そう、「ムツェンスク」は性暴力の場面がある作品なのだ。
それだけではない。さらに、腐敗した宗教界や警察組織なども描いている。この作品でショスタコーヴィチは、スターリンの逆鱗に触れ、危険な状況に追い込まれたことは有名な話。とは言え、26歳の若きショスタコーヴィッチが、このようなスキャンダラスでアヴァンギャルドな作品を作曲し、一応上演まで実現することができたのも事実。当時のロシアの状況をどのように理解すれば良いのだろうか。国のトップ権力者のご意向は別として、芸術界では、かなり自由な表現が許容されていたと判断しても良いのだろうか。芸術分野の大きな発展と政治上の閉鎖的な状況が同時に起こっていたのかなと想像してみる。広がりそうで広がらないもどかしさ。
最悪な登場人物たちに共感できる部分があるということ
前回の音楽旅サイトをご覧いただいたならご存知だと思うが、私はプッチーニ作曲の「マノン・レスコー」の美しい女の子マノンというキャラクターに全く共感できなかった。(ただし、歌ったアスミック・グレゴリアンは間違いなく美しく、大好きな歌手の一人であることに変わりはないということはハッキリ言っておく!)マノンは美しいということ以外に何も素敵なところがない。ただ美しいだけのお人形さんのような女の子で、貧乏に耐えられず、贅沢が大好き。ああ、そんな女なんか少しも魅力でない。それなのに、男は彼女に夢中になる。世の中そんなものなのだろう。
マノンは「困ったちゃん」な女の子だが、それでも殺人のような凶悪なことに手を染めることはなかった。
一方、本作「ムツェンスク郡のマクベス夫人」のヒロイン、カテリーナは殺人者になる。退屈な夫に飽きて、何かと常に監視する面倒な夫の父ボリスにイラつき、突然現れたセルゲイに夢中になり、恋人となったセルゲイを鞭打ちして倉庫に閉じ込めたボリスを殺してしまった。ボリスの好物キノコに毒を混ぜて。ところで、ロシア語でキノコはGribki グリプキというようだ。可愛らしい響きだ。覚えてしまった。面白いことに、「夜にキノコを食べると死ぬ」という都市伝説?があるようだ。「ムツェンスク」のリブレット(台本)によると、ロシアの文豪ニコライ・ゴーゴリが言ったとか?年寄りとは言え元気だったはずのボリスが突然死んだことに疑問を持った牧師に対し、カテリーナは「ボリスは夜にキノコを食べたので」と死因を説明した。なるほど、と納得するおバカな牧師だった。「なんということ!私と夫を置いてボリスが逝ってしまうなんて!!」と大袈裟に悲劇を歌い上げるカテリーナにも笑ってしまいそうになる。あなたが仕組んだくせに。
少し脱線したが、そんな極悪非道な女カテリーナに、我々はこともあろうが物語の冒頭から同情するのだ!
幕が開くなり、人生が退屈すぎて眠れないと訴えるカテリーナに、眠れぬ現代人は親しみを覚える。私だって眠れないさ。退屈な人生にどれほど絶望してきたか。事情は異なるようだが退屈しているのは同じ。「ああ!あなたもそうなのね!」と思わずカテリーナに声をかけたくなる。眠れない辛さ。
カテリーナは夫に飽きていた。面倒な夫の父ボリスにうんざりしていた。愛に飢えていた。
そんなときに現れた男、新しく屋敷で働くことになったセルゲイは、しょうもない女ったらしだ。長身でハンサムだとはっきりリブレットに書かれている。前の職場では、女主人と関係を持ってクビになったらしい。働き始めたばかりのくせに、屋敷の男たちを率いて女使用人アクシーナにイタズラする酷い男である。
それなに、ああ!我々は彼にもまた共感できる部分があるし、憎めない部分があることに気づいてしまう!
セルゲイもまた人生に退屈していたのだ。夜中にカテリーナを訪ねてきて、本を借りようとする(本などこの家にはないのだが・・・)。退屈すぎて眠れないと訴えるセルゲイにも、眠れぬ現代人はまたまた共感してしまう。そして「さっき君と一緒にレスリングをした時、僕は最高に幸せな気分だった」と、セルゲイはカタリーナに伝える。
そう、さっきカテリーナは、アクシーナを助け、男たちに口頭でカッコよく説教したのだが、セルゲイは突然「力比べでもしようぜ」とカテリーナとレスリングをする。日本的に言えば「相撲でもやろう」という感じだろうか。ちなみにシェイクスピア劇ではレスリングをするという表現は、ほとんどの場合、性的な卑猥な表現である。女ったらしのセルゲイは当然に下心を持ってレスリングを提案したに決まっている。
その夜に訪ねてきて、レスリングの時は、幸せな気分だったなどと言われてしまったら、毎日退屈で眠れないカテリーナがコロっと心を動かされてしまうのも、理解できそうな気がするのだが、あなたはどう思うだろうか?そんなことを言う男をかわいいと少しぐらい(少しぐらい!)思ってしまうのではないだろうか。人恋しい孤独な男の一瞬の悦び。
「もう一度レスリングをしよう」とセルゲイが提案した。今回のレスリングは力比べではなさそうだ。カテリーナは「いやよいやよ」と抵抗したが、彼女がセルゲイを受け入れてしまうであろうことは、容易に想像できる。こうして退屈な人生を歩んでいた二人はくっついた。めでたしめでたし。
いや、めでたくはない。
ボリスを殺害したカテリーナに続き、恋人セルゲイもまた殺人を犯した。留守先から戻り、父死亡の真実を探ろうとカテリーナに暴力を振るう夫ジノーヴィ。助けを求めたカテリーナに応じて、部屋の奥に隠れていたセルゲイが飛び出してきてジノーヴィを殺す。
さらに、退屈で眠れない人がもう1人いた。
毒入りキノコ料理で殺されてしまうボリスだ。カテリーナの夫の父親である。若い頃は他人の妻とも仲良くできるほどイケイケだったようだが、流石に年を重ねて落ち着いたのだろう。しかし、夫の留守中のカテリーナの寂しさを勝手に想像して、ワシこそが彼女を慰めるべきだと、しょうもない妄想で一人盛り上がってしまったようだ。その辺は置いておいて、やはり退屈で眠れないということだけは共感する。
人間は弱い生き物だ。退屈して余計なことをやってしまう。カテリーナもセルゲイもボリスも。
指揮者アントニオ・パッパーノのコメント
イギリスのロイヤル・オペラハウスのYouTubeチャンネルでは、同劇場の音楽監督アントニオ・パッパーノが熱くオペラを解説している。オペラ鑑賞の参考になるなるし、あの熱い語りぶりが好きだ。時にオーケストラのピアノリダクションを自ら弾きながら、登場人物を歌いながら、情熱的に語る。
ロイヤル・オペラハウスのチャンネルではないのだが、パッパーノが「ムツェンスク郡のマクベス夫人」について語る動画がある。
私はニコライ・レスコフ(1831-1895)が書いた「ムツェンスク」の原作は知らないのだが、パッパーノが言うには、ショスタコーヴィッチのオペラ作品では、カテリーナのキャラクターは、原作よりソフトに描かれていると言う。原作のカテリーナはもっと強烈な女らしい。原作では自分の思い通りに進むために子供さえ殺したとか?(オペラではカテリーナは子供を授からなかったことを嘆いているのだが。)ショスタコーヴィッチのオペラでは、鑑賞者がカテリーナに共感、同情できるように描かれているとのこと。
シェイクスピアの「マクベス」と比較
あなたはどちらがお好き?
ムツェンスク郡の「マクベス夫人(カテリーナ)」とシェイクスピアの「マクベス夫人」
冒頭からしてカテリーナに同情や共感を感じると言ったばかりだが、本家本元のシェイクスピアのマクベス夫人と比べると、私はカテリーナよりマクベス夫人の方が興味深い人間だと思う。
シェイクスピア関連の本を読みあさった中で知ったのだが、実はシェイクスピアのマクベス夫人に名はない。いや、あるのだろうけど、シェイクスピアの「マクベス」の中では、マクベスの妻の名前が全く出てこない。マクベスは愛する妻の側にいるのに彼女の名前を口にしない。なんという奇妙なことだろう。主役を食うほどの強烈なキャラクターであるのに、夫も誰も彼女の名前を言わないとは!
「ムツェンスク郡のマクベス夫人」では、カテリーナの名前は連呼される。カタリーナ、カーチャ(愛称)、カテリーナ、カーチャ!
夫婦愛もシェイクスピア作品との違いだ。夫に飽きて退屈で死にそうなカテリーナとは違い、マクベス夫人は夫を愛していた。我が夫こそ王になれると強く信じて疑わない。夫が王になるためには人殺しでも何でもする。少しでも夫が弱気になると、すかさずマクベス夫人は夫を鼓舞する。徐々にマクベス自身が積極的になっていくと、今度はマクベス夫人が徐々に勢いを失う。精神を壊し、夢遊病のように彷徨い、マクベス夫人は死を選んだ。この夫婦が最後まで愛し合っていたかどうかは解釈により違いがあるだろう。コロナ禍でストリーミング鑑賞した、ある「マクベス」上演では、夫人が死んだと知らされたマクベスは無言で上の空だった。別の「マクベス」では、知らせを聞いたマクベスは涙を流した。この後者の演出が印象に強く残っている。戦続きのマクベスにとって妻との時間はほんの一瞬の憩いの時間だった。いつまでも自分を信じてくれる同志であり戦友であった。シェイクスピア劇の他にオンライン鑑賞したヴェルディ作曲のオペラ「マクベス」でも同様にマクベスと夫人の強い絆、愛を描いていた。
「ムツェンスク」では、夫ジノーヴィは完全に脇役で、シェイクスピアの「マクベス」に当たる人物は、夫ではなく恋人セルゲイなのだろう。とは言っても、カテリーナとセルゲイの間にマクベスとマクベス夫人のような絆があったとは思えない。お互い暇すぎて結びついただけだ。それに、殺人罪で二人が逮捕されてからもセルゲイを愛し続けたカテリーナに対し、セルゲイは人生を滅茶苦茶にされたと言ってカテリーナを恨み、別の可愛い女の子に夢中になる。絆とは程遠い関係だ。
シェイクスピアでは、マクベスは死を求めて戦い続ける。マクベスの最後は、痛々しくもありカッコ良くもある生き様だと私は思う。人生とは何か、簡単には語れないところがシェイクスピア作品らしい。「ムツェンスク」では、セルゲイは最後の最後に別の女の子に夢中なってしまう。おバカな男にしか見えない。こんな男に惚れたカテリーナに救いはない。女の子を道連れに身を投げるしかなかった。人生とは何か考えさせられると言うよりは、しょうもないなと苦笑してしまうフィナーレである。
「ムツェンスク郡のマクベス夫人」カテリーナより、シェイクスピアの「マクベス」の「マクベス夫人」の方が、私は断然好きであるということがバレてしまっただろうか?本音だから仕方ない。好きな作曲家であるショスタコーヴィッチには申し訳ない。
シェイクスピアの「マクベス」の魅力は他にもある。マクベスは王になるという魔女の予言があり、マクベス夫人はその予言に大興奮して、本当にそのようになるように全力を尽くした。魔女の予言というところがメルヘンの世界に通じる。「ムツェンスク」でも、シェイクスピア作品のように殺された者の亡霊が出るという場面はあるが、「ムツェンスク」は基本的にリアル世界の物語である。メルヘン性はない。
もちろん「ムツェンスク」にも好きなところがある。前述の通りショスタコーヴィッチは好きな作曲家である。オペラ内で何度か挿入される間奏曲のケタケタしい音楽に興奮する。音楽として聞き応えがある。情事の音楽、やたらとリズミカルで楽しげにさえ聞こえる鞭打ち音、酔っ払ったまま死体を発見してしまうヨレヨレの農夫の歌や、一生懸命カテリーナを讃える歌を厳かに歌うダメダメ牧師、やる気のない警察官たちなど、面白おかしい音楽が満載。皮肉とユーモアまみれで良い。それに音楽が合っている。さすがショスタコーヴィッチだ。あとは、最後の幕の囚人たちの合唱が美しい。昨年12月にフランクフルトで鑑賞したチャイコフスキー「チャロデイカ」の弔いの合唱のような美しいコラール。楽譜があればピアノで再現してみたい。
予習音源
「チャロデイカ」のように対訳を探せない可能性を覚悟したが、ストリーミングサイトのIDAGIOでブックレット付きの音源があったので助かった。原語ロシア語はローマ文字表記、そのほかドイツ語、フランス語、英語が載っている。無料でありがたい。
Shostakovich: Lady Macbeth of Mtsensk
もしショスタコーヴィッチをご存知ないのであれば、彼の音楽のケタケタしい勢いを、下の動画で体験していただけないだろうか?興味深い映像である。「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の第三幕の途中に挿入されている間奏曲をショスタコーヴィチ自身がピアノで弾いている。